「こちらですよ。マイスター家の邸宅は」
イレーネに声をかける青年警察官。
「ここが……そうなのですか?」
馬に乗ったまま、目の前に広がる光景にイレーネは目を見開いた。
「ええ、そうです」
警察官は馬から降りると、イレーネに手を差し伸べてきた。
「さ、降りましょうか?」
「恐れ入ります」
イレーネは警察官の手を借りて、馬から降りると改めてマイスター伯爵邸を見つめた。石の壁がどこまでも続きそうな門。フェンスの扉の奥は綺麗に芝生が刈り取られた広大な敷地。馬車が通るための石畳が続く先に見えるのは三階建ての大きな屋敷が建っている。
「すごい……なんて立派なお屋敷なのかしら。以前働いていたエステバン家よりもずっと大きいわ」
思わず口に出ていた。
「ええ、何しろマイスター伯爵家はここ、『デリア』でも名家ですからね。何でも近々、当主交代をすると広報誌に載っていましたよ」
「そうだったのですか」
(それでは、これから新しい当主になる方が雇い主になるのね)
そんなことを考えていると、警察官が声をかけてきた。
「それでは、私はここで失礼します。まだ仕事中ですから」
「お巡りさん、本当にお世話になりました」
「いえ。お役に立てて良かったです」
そして再び青年警察官は馬にまたがると、手を振って去って行った。
「ありがとうございました」
イレーネも手を振って見送る。やがて、警察官の姿が見えなくなると門を振り返った。
「こんな大きなお屋敷で、私のような田舎者が雇ってもらえるかしら? 心配だわ……いいえ、そんな弱気な事を言っては駄目よ。何しろここで雇ってもらえなければ私は最悪、宿無しになってしまうかもしれないわ。ここは堂々としていないと駄目よね!」
自分自身に言い聞かせると、イレーネは背筋を伸ばす。
そして門を開けてマイスター伯爵家の敷地に足を踏み入れた――***
現在マイスター家の執事を務めるリカルド・エイデンは、今大変困った状況に置かれていた。
何故なら、それは……
「ですから何度も申し上げたとおり、ルシアン様はまだお仕事から戻られていないのです。どうぞお引き取り願います」
リカルドは応接間のソファに居座っている女性に、必死で訴えている。
「いやよ! そんなこと言って、もう何日もルシアン様にお会いできていないわ。私に会わせないために嘘をついているのでしょう?」
そして女性は腕組みすると、フンとそっぽを向いた。
彼女の名前はブリジット・ダントン伯爵令嬢。情熱的な赤い髪に、アンバーの瞳。鮮やかなバラ模様ドレスに身を包んだ現在19歳のうら若き女性。 偶然出会った社交パーティーでルシアンに一目惚れし、それ以来彼にしつこくつきまとっているのであった。「いいえ、嘘などついておりません。現在仕事で外国に出張中でして、お戻りはいつになるかは不明です」
出張中というのは嘘ではあるが、現に今この屋敷に不在なのは確かである。
「いいえ! そんな嘘信じるとでも思っているの? とにかく今日は帰って来られるまでお待ちいたしますから!」
我儘に育てられた頑固な娘は意地でも自分の意見を通そうとする。
「そのような態度をとられてよろしいのですか? ルシアン様は女性からしつこくされるのが嫌いな方です。それにいつこちらに戻られるのか、我々も分からないのですよ? ブリジット様はすでに5日間、ここへ通われている為に最近ピアノのレッスンもダンスのレッスンも欠席されているそうではありませんか? ダンストン伯爵家から、そう伺っておりますが?」
「う……そ、それは……」
恋い焦がれる相手から軽蔑されたり、嫌われることだけは避けたい。
そこでブリジットは押し黙ると立ち上がった。「それでは、本日はお暇させて頂きます。ですが、ルシアン様に伝えておいて下さいね。私と会うお時間を作ってくださいと。当然用件は御存知でしょうから」
「はい、伝えておきます。それではエントランスまで御案内させて頂きます」
「ええ、お願い」
(やれやれ、ようやくお帰り頂ける……)
心の中で安堵のため息をつきながら、リカルドはブリジットを連れてエントランスまで案内した――
「本当にルシアン様が1週間近く、この家で1人で暮らしていたなんて……俄かには信じられませんわ」イレーネは目を瞬いた。「信じられないかもしれないが、本当の話だからな?」じっとイレーネを見つめるルシアン。「それではお仕事の方はどうされたのです?」「とりあえず、重要案件以外はリカルドに任せてきた」ルシアンの脳裏に、リカルドが「仕事を放り出して行かないで下さい」と半泣きで訴えてきた記憶が蘇る。「それは良かったです。さすがはリカルド様ですね」「そうだな……ところで、イレーネ」ルシアンはイレーネの肩を抱き寄せた。「はい、ルシアン様」「結婚式はいつ挙げよう? 君を愛しているから俺は今すぐにでも式を挙げたい気分だが……大勢の人に祝ってもらいたからな。それにドレスも作らないといけないし」「ええ? 結婚式ですか?」その言葉にイレーネは目を丸くする。「どうした? まさか結婚式を挙げたくないのか?」「いいえ! そんなことありません! ただ……そんな贅沢、私には分不相応ではないかと思いましたので。何しろ私には……財産も何もなく、ルシアン様に捧げられる物は何も無いので」しんみりした顔で俯くイレーネ。「そんなことはないだろう? イレーネが側にいてくれるだけで、俺にとっては財産なんだから」「本当……ですか?」「本当だ。だから……その警察官も絶対に式に呼ぶぞ!」ルシアンが力を込めて訴える。「えぇ!? ケヴィンさんをですか?」「当然だ。何しろ、彼は君に、その……こ、告白をしたんだろう? 何と返事をしたかは本人に聞いてくれと言われたが……聞くまでも無いよな?」「勿論ですわ。だとしたら、私はここにいませんから。それに……」「俺からのプロポーズも受けたりしないよな?」「そういうことです」笑顔を見せるイレーネ。「だよな?」そっとイレーネの頬に手を添えるルシアンにイレーネは頷き……2人は再びキスを交わした――****そして半年後――ルシアンとイレーネは大勢の人々に囲まれ、盛大な結婚式を挙げた。ゴーンゴーンゴーン……教会の鐘が鳴り響く中、人々に見守られながら永遠の愛を誓う2人。「愛しているよ、イレーネ。永遠に」ウェディングドレス姿の美しい花嫁となったイレーネにルシアンは愛を告げる。「私もです。ルシアン様」青空の元で抱き合い、キスを交わ
イレーネとルシアンは丸太の上に腰掛け、話をしていた。「それにしても、よく私が『コルト』に戻ってきたことが分かりましたね?」「あぁ……そのことか……実は、君を家に泊めたという警察官が屋敷を尋ねてきたんだ。イレーネが忘れたハンカチを届けにね」「ハンカチの忘れ物ですか?」「さっき、渡しただろう?」「え? このハンカチは私のではありませんよ?」ポケットからハンカチを取り出すイレーネ。「何だって? だって、そのハンカチには君の名前が刺繍されているぞ?」「確かにそうですが……でも違いますね」「え……? そ、それじゃ……あ! もしかして、彼は……」その時にようやくルシアンは気付いた。ケヴィンはイレーネの居場所を伝えるために、ハンカチの忘れ物をでっちあげたのだということに。(何て男だ……俺よりも1枚も2枚も上手だったとは……)男として少し負けてしまった気持ちになり、ルシアンはため息をついてイレーネに尋ねた。「イレーネ、君はあの警察官とどんな関係なんだ?」「ケヴィンさんのことですよね?」「ケヴィンだって……? 名前まで知ってるのか!?」その言葉にショックを受けるルシアン。「はい、そうです。教えていただきましたから」「……随分色々なところで会ったと言っていたが?」苛立ち混じりに質問を続けるルシアン。「はい、そうですね。パン屋さんまで連れて行ってもらったり、偶然出会って一緒に食事したこともありますね。それにベアトリスさんの家で畑を耕していたときにお話したこともあります。他に……」「ちょ、ちょっと待ってくれ!」ルシアンは頭を押さえてイレーネの話を止めた。「どうかされましたか?」「すまない……話の腰を折るようで悪いが……訂正させてくれ。確かにあの家はベアトリスの家だったが、今は違うからな? 紛れもなくイレーネの家だ……いや、別宅だ。君の家はマイスター家の屋敷だからな。それに、どういうことだ!? 泊めてもらっただけでなく、食事までしたことがあるのか!?」「食事と言っても、席が偶然隣同士になっただけですけど? しかもお店はパン屋さんでカウンター席でしたから」「な、何だ……そんなことか……」イレーネの言葉に脱力し……ルシアンは焦った。(何だ? これでは……あの警察官に嫉妬しているようじゃないか……!)「それにしても、ルシアン様。やっと私
「あ……そ、そのすまない。突然抱きしめてしまって」ルシアンは慌ててイレーネの肩を掴むと、そっと自分から引き離した。まだ気持ちを告げていないのに、抱きしめてしまったことに罪悪感を抱いたからだ。「ルシアン様、どうしてこちらに? ここは……」「分かっている。イレーネの実家だろう? 借金返済のために売却していた大切な場所だ」ルシアンの言葉にイレーネは気付いた。「え……? まさか……この家を買ったのは……?」「そう、俺だ。リカルドから実家の住所を聞いて、売却されていた金額より上乗せして買い上げたんだ。そのお金は……君名義の通帳にもう振り込んである」「そうだったのですか? それではこの家が退職手当で、振り込まれたお金が退職金ということになるのですね?」「は……?」あまりにも見当違いのイレーネの言葉にルシアンは言葉を失う。「でも、本当に頂いてよろしいのですか? まだ4ヶ月しか働いていませんでしたし、結局契約妻の役割も果たしておりませんでしたのに?」首を傾げるイレーネ。「いやいや、ちょ、ちょっと待ってくれ。俺が何故ここに現れたのか疑問に思わないのか?」「え……と……そうですね。家の管理をする為……? もしくは私に……」「そう、それだよ!」「連絡するために、いらして下さったのですか?」「はぁ!?」何処までも鈍いイレーネに、ついにルシアンは我慢できなくなった。「違う! そうじゃない!」ルシアンは再び、イレーネを引き寄せると強く抱きしめてきた。「ルシアン……様……?」「イレーネのことが好きだから、ここまで来たに決まっているだろう!?」その言葉にイレーネは耳を疑う。「え……? で、ですが……ルシアン様はベアトリス様と婚約を……」するとルシアンはイレーネから身体を離し、肩に手を置くと尋ねた。「君は新聞記事を読んでいないのか?」「……はい……」イレーネは目を伏せて頷く。「そうか……なら、知らなくても当然だな。俺とベアトリスの話は、全くのデタラメだ。レセプションから2日後の新聞には、訂正記事が掲載されたんだ。俺のインタビューつきでな。ベアトリスの話は嘘で、本当は婚約なんかしていないって。そして俺には別に大切な女性がいると記述されている。それが誰のことかは……もう分かるよな?」じっとイレーネの目を覗き込むルシアン。「それって……まさか
イレーネが『コルト』に戻ってから、1週間が経過していた。「……戸締まりは大丈夫ね」部屋の扉をカチャカチャ回し、鍵がかかっているのを確認すると早速出掛けた。「今日も良いお天気ね〜絶好のお出かけ日和だわ」帽子を風に飛ばされないように押さえながら、イレーネは空を見上げる。今、イレーネは住みこみでパン屋で働いていた。就職先を斡旋してくれたのは他でもない、ルノーだった。彼はイレーネが困っているときに手助けできなかったことを悔やみ、色々奔走してくれたお陰であった。 そして今日は働き始めて初めての定休日。そこでイレーネは店のパンを持って、人手に渡ってしまった実家の様子を見に行こうとしていたのだ。大通りに出てきたイレーネは辻馬車乗り場をチラリと見た。マイスター家でもらったお金は全ていざというときのために、貯蓄に回していた。 頼れる身内が一人もいないイレーネにとってお金は大切なものだったからだ。 「……馬車を使いたいところだけど、ここはやっぱり節約しないといけないわ。歩いていきましょう」イレーネは辻馬車乗り場を通り越して、かつて我が家だった屋敷へ向かって歩き始めた。町の大通りを抜け、並木道を抜け……イレーネは思い出が詰まった懐かしの家へ向かってどこまでも歩き続ける。 ようやく、今は人手に渡った屋敷が見えてきた時。「あら?」イレーネは足を止めた。 この間訪れたときにあったロープは外され、『売却済み』の札が引き抜かれている。 そして窓が開け放たれ、手綱を木にくくりつけられた馬が待機していたのだ。「え? まさか……もう人が住んでいるの? 取り壊されてしまうかと思っていたのに……」実はイレーネが今日、ここを訪れたのは理由があった。恐らくこの土地と屋敷を買った人物は、古くてあちこち壊れているこの屋敷を取り壊すに違いないと思ったからだ。 そこで屋敷が取り壊される前に目に焼き付けておきたいと思い、ここまで足を運んで来たのだった。生活感の感じられる我が家を目にした時、イレーネの胸に熱いものが込み上げてきた。「この雰囲気……懐かしいわ……」まるで今にも扉が開いて「お帰り、イレーネ」と、大好きな祖父が笑顔で現れるような気がしてならなかった。「おじい様……」イレーネはふらふらと吸い寄せられるように、懐かしの我が家へ数歩進み……我に返って足を止めた。
「あの……警察の方が、何故こちらに? もしかしてリカルドが何かやらかしたのですか?ルシアンは何故警察官が屋敷に現れたのか理由が分からずに尋ねた。「ルシアン様! それは一体どういう意味でしょう!?」憤慨するリカルド。するとケヴィンが説明した。「いえ、こちらの方とは以前に一度だけお会いしたことがあるのですよ。てっきり不審人物かと思い、職務質問をしてしまったのです」「何? リカルド。お前、やはり何かやったのだな?」「何もしておりません! 一体ルシアン様はどういう目で私のことを見られているのですか!?」「アハハハ……。これはすみません。僕の説明の仕方が悪かったようです。実は、今から10日程前ですが、駅前で足を怪我してしまった女性がいましてね。それでその方を御自宅までお送りしたことがあるのです。その後、足の怪我の様子が心配で様子を見に伺ったときに……こちらの方が木の陰から覗いていたので声をかけた次第です」「え……? まさか、その女性とは……」ルシアンは隣に立っているリカルドの方を向く。「は、はい……イ、イレーネさんです……」顔面蒼白になりながらリカルドは答える。「リカルド!! 何故黙っていたんだ!! どうしていつもいつもお前は一番肝心なことを隠しておくんだ!」我慢できずに怒鳴るルシアン。「それはイレーネさんがルシアン様に心配かけさせたくないので、黙っていてくださいとお願いしてきたからですよ!」リカルドはたまらず、大声で答える。「え? 何だって……? イレーネが……そう、言ったのか?」呆然とするルシアンの様子を黙って見守るケヴィン。やがて、ポケットから白いハンカチを取り出すとルシアンに差し出した。「こちらはイレーネさんの忘れ物です」ルシアンはハンカチを受け取り、広げた。するとハンカチには確かにイレーネの名前が刺繍されている。「え!? な、何故……警察の方がイレーネのハンカチを?」「はい、イレーネさんが僕の家にハンカチを忘れていったからです」笑顔で答えるケヴィン。「え……?」「ま、まさか……?」「レセプションで、行き場を無くしてしまったイレーネさんを我が家に招いたのは僕ですから」「な、何だって!!」「そんな!!」ルシアンとリカルドが同時に驚きの声をあげた。「イレーネさんを一晩泊めて、翌日家族と一緒に朝食を食べました。
イレーネがマイスター家から姿を消して2日――屋敷の中は、イレーネがいなくなったことで、まるで明かりが消えてしまったかのような暗い雰囲気に包まれていた。「イレーネ……一体何処へ消えてしまったんだ……」午前10時。ルシアンは仕事も手につかず、書斎で頭を抱えていた。「本当にどちらへ行かれてしまったのでしょう……レセプション会場でもイレーネさんの手がかりは掴めませんでしたし……」リカルドがため息をついたその時――『大旦那様! 落ち着いて下さい!』『うるさい! これが落ち着いていられるか!』大きな騒ぎ声がこちらに向かって近づいてきた。「あ……! あの声は……」「まさか……!」ルシアンとリカルドの顔が青ざめる。次の瞬間――バンッ!!乱暴に扉が開かれ、怒りの形相を浮かべたジェームスが室内に現れた。その背後にはオロオロした様子のフットマンがいる。「お、お祖父様……どうしてこちらへ……?」ルシアンは席を立ち、声をかけた。「どうしたもこうしたもあるか! ルシアンッ!! まだイレーネ嬢が見つからないのか!!」ジェームスは眉間に青筋を立てて、怒鳴り散らした。「は、はい……手は尽くしたのですが……」「いくら、あのオペラ歌手とのことは誤解だったとはいえ、そもそもイレーネ嬢に勘違いさせるような行動を常日頃から取っていたのではないか!? だから彼女はお前の元から去っていったのだろう!?」「……」心当たりがありすぎるルシアンは一言も返す言葉がない。「いいか? 絶対にイレーネ嬢を捜し出すのだ。もし、彼女が見つかってもお前の元に戻りたくないというのなら、そのときは私が彼女の身元引受人になるからな!」その言葉にルシアンは耳を疑う。「お祖父様! 一体何を仰っていられるのです? そこまでイレーネを気に入られたのですか?」「ああ、そうだ! 彼女は私の古い友人の孫娘だからな!」「「ええ!!」」その言葉に、ルシアンとリカルドが衝撃を受けたのは言うまでもなかった――**** その後、ジェームスはルシアンに言いたいことだけ一方的に告げると「忙しいから帰る」と言って去って行った。エントランスまで見送りに出ていたルシアンとリカルド。ジェームスを乗せた馬車が見えなくなると、リカルドが口を開いた。「それにしても驚きましたね。まさか大旦那様とイレーネさんのお祖